8月6日(木)
広島と長崎に原爆が投下されてから70年。原爆被害者の御霊に心から哀悼の意を表します。核兵器の廃絶は、人類史上最悪の悲劇を経験した日本人の願いです。それだけに私は、日本国憲法は核兵器の保有を禁じていないという説明を初めて聞いたとき、少なからず驚きました。
政府の見解は、核兵器であれ通常兵器であれ、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法第9条によって禁止されていないが、非核三原則によって核兵器の不保持という政策的な選択をしているというものです。歴代法制局長官は、どんなに追及を受けようとも、法理論と政策論は別であるとの立場を貫きました。それはそれで筋が通っていますし、だからこそ内閣法制局は信頼されてきたのだと思います。
ところが、安倍政権の安保法制によって、内閣法制局の権威と信頼は失墜してしまいました。集団的自衛権の行使を認めるべきだという政治勢力はこれまでも存在したし、国会において厳しい追及がなされたこともありますが、歴代法制局長官は一貫して、憲法上許されない、集団的自衛権の行使を可能にするためには第9条を改正するほかないと答弁してきました。
ところが内閣法制局は、長官人事への介入などの政治的圧力に屈し、長く堅持されてきた憲法解釈を変更してしまったのです。戦前、「天皇機関説」を唱えた美濃部教授に対する排撃と弾圧を想起すると言ったら、言い過ぎでしょうか?
憲法解釈について最終的な判断を下すのは最高裁判所ですが、最高裁は、具体的な訴訟の中で、その解決に必要な限度で法令の違憲審査を行うに過ぎず、憲法判断を示すことは極めて稀です。
だからこそ、事前に全ての法令を審査する権限を有する内閣法制局が大きな役割を果たしてきたのです。そんな重要機関が、安倍政権によって骨抜きにされてしまいました。
衆議院の審議において、現職の法制局長官が集団的自衛権を「ふぐ」に例え「肝を外せば食べられる」と答弁しましたが、もう怒りを超えて、悲しみを感じます。
地元を回っていると、徴兵制について真剣に心配する方々、特に女性が多いことに驚かされます。私は殊更に不安を煽るつもりはありません。しかし、内閣法制局の権威が失墜し、憲法適合性を厳格に審査する制度的担保が瓦解してしまった今、憲法第18条が禁止する「意に反する苦役」に該当するという解釈が将来に亘って維持されると一体誰が保証できるでしょうか?
自民党の二回生議員が「戦争に行きたくないというのは極端な利己主義」などと嘯いているのを見るにつけ、この心配は杞憂ではないと思えてなりません。