7月25日(金)
濃霧のなか、いよいよ古釜布(ふるかまっぷ)が見えてきました。「えとぴりか」は、直接、寄港できないため、私たちは、「はしけ」に乗り換えて上陸しました。肌寒いと聞いていたのに、ここ数日は珍しく猛暑だったそうで、強烈な日差しにサングラスをかけないと目が痛くなりました。
最初に、行政府を訪問し、続いて現地の消防署、郷土資料館、ロシア正教会、図書館を視察しました。その後、日本人墓地を訪問し、お読経、全員でご焼香し合掌させて頂きました。ご先祖のお墓を前に跪く元島民の方々のご心境はいかばかりだったでしょう。
現地のロシア人は、総じて友好的であり、この事業もすでに23年目とあって、私たちを受け入れるのに、余裕をもって接していました。
元島民の方のお話によれば、戦後の混乱に紛れてスターリンの命により、突然ロシア兵が進軍してきた時の兵士はほとんどがウクライナ出身だったそうです。そして、今も、この島に暮らす人の多くがウクライナ人でした。
かつて漁業と水産加工で稼ぎ、賑わっていた豊かな島は、突然現れたソ連兵に、島を出て行け、そうでなければソ連人になるか、と迫られ、泣く泣く島を後にしたそうです。あれから69年経って、歴史的にも法的にもまぎれもなくこの島は我が国の領土なのに、日本の風景とは全く違う、ロシア化が進んでいました。
とりわけプーチン政権が、この島を「本土と変わらない生活水準に引き上げる」との方針を打ち出して以後は、道路の整備や文化・教育・体育施設、保育所などインフラ整備がどんどん進み、目に見えて投資・開発が進んだとのこと。何度かこの島を訪問している参加者からも「新しい建物が出来ている。」との感想が漏れていました。
博物館では、元島民がほとんど何も持ち出すこともできずそのまま残していった家財、当時では相当高価な品だったと思われる生活用品が数多く展示されていました。私は、ロシアによって実効支配されてきた69年という歳月の長さ、重みを実感させられると同時に、いかにして返還のための具体的交渉を進めたらよいのか、頭の体操を繰り返していました。