3月11日(木)
10年前の3月11日午後2時46分、議員会館の自室で、今まで経験したことのない大きな、長い揺れに見舞われた。何が起こったのか、自分が眩暈を起こしているのか分からず、その場でしゃがみこんだ。
当時、わたしは外務政務官を務めていたので、急ぎ外務省に向かった。ニュースの中継で、津波が押し寄せる中、避難する車が次々と転覆し、水にのまれていく映像が流れた。見ていられなくて途中でテレビを消した。
米国の「トモダチ作戦」をはじめ世界中から、救助隊を派遣したい、救援物資を送りたいという申し出が各国大使館を通じて次々に届く。わたしはその受け入れや配分を担当した。自己完結型で被災地に行ってもらうことにしたが、トラブルが次々起こる。海外からの救助犬が空港の検疫でひっかかる。救助隊員がケガをする。被災地との意思疎通がうまくいかない。大量に届く毛布、衛生品、食料等の救援物資の輸送と分配の難しさ。
被災地にも行った。南三陸町。高速道路が寸断していて、ものすごく時間がかかった。テレビで見る以上に悲惨な状況で、道路がどこなのかわからない。倒れた電線を頼りにして走った。陣頭指揮をとっていた町長さんにもお会いした。役場で寝泊まりし疲れ果てている姿に接し、かける言葉が見つからなかった。
福島第一原子力発電所の事故は衝撃的だった。「日本は壊滅する」「東京も放射能で汚染される」「メルトダウンを止めるのは日本政府では無理だ」「日本を脱出したい」自国民の安全を確保しなければならない各国大使館から外務省への問い合わせは連日続いた。事実を把握し、正確な情報を伝達する工夫と努力。「大丈夫です!」とは明言できない日々。数か月間、外務省の中も省エネが徹底され、暗い執務室、暗い廊下、暗い会議室で仕事が続いた。ずっと防災服。
10年前のこと、あまりに大変すぎて、正直、詳細な記憶が少ない。被災地、被災者の皆さんはもっとそうだろう。怖すぎて、悲しすぎて、感情も記憶もフリーズしなければ、生きてこれなかった人も多いと思う。
一人一人尊い命だったのに。未だに家族の元に戻れないご遺体。今もなお深い悲しみと喪失感の中で生きていかなければならないご遺族。故郷に帰れない被災者。本当に悲しい残酷な事実。
私たちは、多大な犠牲の上で学んだ教訓を忘れてはいけない。街は再興したように見えても、被災した人々の心の痛みは回復していない。真の復興はまだ先だ。そして、津波にも、原発事故にも、人間の想像と英知を超えた脅威があり、原発には過酷事故が必ず起こり得るということを忘れない。まだ10年。脱炭素宣言の名を借りて、原発再稼働することは絶対に許されない。